Ryoko Kimura Art Works

「モデルは人か、モノか?」男を描くということ8

先日7日、京都場にてトークを行いました。ちょうどトークテーマの「岡本かの子」が、「この時代にして、完全に男をモノ扱いしてるのがすごいよね~~!」てな話をしてたところだったのですが、ちょうどこの日、アラーキー氏への告発があったのを翌々日知りまして(遅い)。。この話題は女性としても、造り手としても色々、モヤモヤ思うところがありました。写真と絵画と表現方法は違うけど、私も時々モデルさんは使うので→お願いするので。

まず、作り手として引っかかったのが、「モデルをモノ扱い」というところ。むむむ、、そういや私もかも、、と。
思わず書いてしまった、モデルさんを「使う」、、てところから既にモノ扱いしてますよね。

以前、ポージング頼んでたモデル君から、「俺のことデッサン人形ぐらいにしか思ってないでしょ?」と言われてハッとしたことがありました。そういやそうかも、と。私的にはフェチくさくて面白いエピソードとしてトークの小ネタにしてたけど、この話もおそらくタブーですね。。

私は製作時、彼らの身体を用いて、自己表現の媒体としてどう調理してやろうかと、彼らを完全に素材、モノとして扱ってしまっている気がします。とても美しいモノ、私の創作の為に、私の為にキッツいポーズもがんばってくれる素敵なモチーフ、、いいぞいいぞ!!終わったら焼肉だぞ〜〜〜と、、、

 

「男」を描くということ その4

初めて男性ヌードを作品として描いた時の話。男体盛りの製作。モノからヒトへ、人からモノへ。この時も食材の盛り付けに夢中で、股間に直接魚のお頭を乗せようとして、頼むから何か下に敷いてくれ!と叫ばれた記憶が、、ごめんね(汗)

 

そんな私に、時々彼らは自分は生身の人間だ!と主張してきたり、求めていた以上のことをやってのけてくれたり。。彼らの汗に、ハッと我に帰る。モノとして扱ってしまいがちな私と、人間で在ろうとする彼らのせめぎあいの繰り返しが、制作において、ちょっと面白いとも思っていて。。あくまで製作時の話ですが、アーティストとモデルの関係なんて、そんなもんじゃないのか、とさえ。

でも、長く描き続けているとそこに少々新鮮味を感じなくなって、なによりモデルさんは人間な以上、そんな考え方は人としてマズイかなぁと、、では私が心からリスペクトできるモデル、アーティスト自身をモチーフにする作品を考えましたた。それが黄金町バザール2014年に出した、BE MY MODEL。観客参加型の、参加者がイケメンアーティストのモデルになるという、乙女ゲーム作品です。

  

BE MY MODEL  -ARTIST in RESIDENCE with LOVE♥︎

私が取材した、モデルになっていただいたアーティストは皆さん素敵な方々で、あまりに快く応じてご協力くださったので、彼らを素敵に描かなきゃ!かっこいいキャラでシナリオ書かなきゃ!と、思うと、実は全く筆が進まなくて本当にに参った時も。要はモデルとなってくれた方々への、対人間的な気遣い?で制作サイドの私の方が苦しくなったのでした(笑)。結果、申し訳ないながら、一旦人間性をかなり崩しての再構築。。。(この作品はあくまでフィクションです!)

あくまで制作の現場限定ですが、アーティストにとってモデルさんは、善かれ悪しかれ、作品の一種のモチーフ、モノ、素材であると思っています。。モデルの存在感を活かし、時にはイメージをブッ壊し、彼らを通して自己を探る。つか、いったんモノに落とし込まないと、自分の主張、想いみたいなのをブチ込みにくいのかも。個人的には、モデルさんの人格まで絵に表現しようとは全然思ってません。彼らから勝手に得たインスピレーションを、勝手に想いを絵に投影してるだけ。その想いはもちろん、色々あるけれど。。

 

「私にとって男性はずっと恋愛対象であり、いつまでも不可解な存在でもある。「男」を描くときはいつも、自分との関係をつらつら考えたりする。今描いている男を、私は愛せるのだろうか?それとも鑑賞用として、それともただのモノとして面白がって描いているだけなのだろうか?それとも……既に愛してしまっているのだろうか?憧れや愛情が暴走し、ものすごく執着するかと思えば、冷徹で残酷な扱いをして平気なときもある。圧倒的な他者として、女である私自身と完全に切り離すことができる。例えば美しい彼らにどんな恥ずかしいポーズをさせても、そこに自己投影することもなく、超・人ごとと思えるのだ。 」2016年個展「お伽話 – Ikemen-Marchen」ステートメントより

 

実はそうしたことは、異性=男性を描いてからこそ気づいたことで、同性である女性を描いていた時は、あまり深く考えてなかったように思います。それよりも、発表するときの違和感、自意識過剰かもしれないけど、観客に”女体”=”自分かもしれないもの”、を晒して見られてる感への、生理的嫌悪感の方が強かった。でも、男性モチーフに対しては、それが全くないのです。

私にとって、性差によるモチーフへの自己の共感度、温度差はかなり異なりました。でも、それは男性側、逆も然りじゃなないかなと思うんです。私がそうであるように、男性にとって女性という媒体は、どうしようもなく”他人”である、と。男性を描いてみて改めて、自分のそうした視点に気づきました。自分も男性に、そうなんだと。

だから、というのも何ですが、アーティストのモデル希望の女性の方は、一度でいいから男性ヌードを描いたり、撮影したりするといいと思います。
製作時、自分がどういう目でアーティストから見られるか、自分の目を通して、作家の目を知ることができると思う。性的な、いやらしい目でなく、自分がモノとして見られる目は、それはそれで結構、残酷な視線だと思います。

知ることは、身を守ることになると思う。芸術のため、アーティストのためになんでもしなければ、じゃなく、アーティストの為にこそ人間として主張する、モデルはアーティストと鬩ぎあって、戦っていいんだと、作家の立場から言いたいです。

まだまだ芸術の名の下に、女性は見られて、脱いで、見られて当然の存在というのを、無意識にそういうものと許容してる女性自身も、男性もとても多いです。逆に男性は「見る側」の立場に慣れきって、自分の裸が見られる対象として認識してる人は圧倒的に少ないと思う。

以前、金沢アートグミの個展で行ったイケメンデッサンワークショップ(2013,14)。参加者はほとんど女性でした。

都内でも、男性を描ける絵画教室は結構いろいろあります。一度きりでもOKっぽいので、ぜひ参加してみてほしいです。もちろん、身近な男性を描くのもいいと思います。
男性をモノとして、ジロジロ観察しちゃいましょう!たぶん、少し見方が変わると思います。

この絵はちょっと違うかもだけど、あんたら、こんな姿見られて女に描かれとるんどすえ~~!と、男性にももっと認識させるべきじゃないかと思います(笑)。まあ嫌われますけどw。発表した当初の2005年、男性のお客さんより「こんな絵描いてて恥ずかしくないの?」と言われましたが、「ぜーんぜん」。だって他人やし。女性の股を開いた作品を描いて出すより、ずっと恥ずかしくなかった。むしろ、不思議な爽快感。

 

爽快感といえば!新作「瀧図-boys by the river」。こちらはなぜが、男性に大人気です。

そういや股開いた、で思い出しました。この作品の対のトラ屏風(左)は売れて、ワニは売れ残りました。購入した方は海外の男性ですが、理由は、「男がパカーンと股を広げてるのが、なんだか男がバカにされてるように見えて嫌だ」とのこと。

女性が股をぱかーんと開いた作品は、それこそ山ほどありますが。。。
これを聞いて、男性も、描かれた男性モチーフに自己投影、共感するんだなあと改めて思いました。男性を描くようになって、周囲の反応はもちろん、自分自身の視点の変化とか、色々気づくこと多しです。なかなかモヤモヤして文章化できないことも多いけど、おいおいと。。

最後に、この作品はモデル君を頼んだからこそできた作品。2013年、アメリカのスペンサー美術館に購入され、自作が初めてパブリックコレクションになった作品です。

Heros 男子鍛錬図屏風

この作品が美術館コレクションになったとき、モデル君も喜んでくれて、本当に嬉しかった。。逆立ちきつかっただろうし、ブリッジや股座から見られるポーズwは恥ずかしかったようだけど、頑張ってくれました。改めてありがとう!!マジで!

製作時はどんなにモノ扱いしても、その制作前後のやりとり、つまり人間としての信頼関係があってのことで、でも、そこのバランスが崩れた時、色々関係性は崩壊するんだろうな。。KaoRi.さんの告発を読んで、改めて私もモデル君らとの信頼関係、ちゃんと作ってるか不安になってきたけど、作家サイドとして製作時、やはり脳内でモノ扱いしてしまうかもだけど。。私自身の自戒も含めて、それ以外は人間同士、素敵なコミニケーションをもって、作品のために今後もモデルさんにはご協力いただきたいです。心から。。

数日、いろいろ考えていたことを書き出してみましたが、嫌悪感を抱かれる方もいらっしゃるかもしれません。あくまで私個人の、異性をモチーフに描く、アーティストして思ったことです。アラーキー氏を肯定するわけでも、KaoRi.さんを否定するわけでもありません。ただ、弱輩ながら、美術に携わるものとして、やはり女性として、KaoRiさんのように思うモデルさんが一人もいなくなることを、心から願います。

ところで現在個展で展示中の「イケメン仏画」。モデルはタイのダンサー、
彼に関してはヒトでも、モノでもない、まさに目の前に「菩薩降臨」でした。。。!

文殊菩薩像:ポージングモデル:ダンスアーティスト・サン・ピッタヤー・ペーフアン|Sun Phitthaya Phaefuang

彼はベジタリアンだったので、焼肉でなく野菜のおでんをご馳走させていただきました。

 

次回の京都場でのトークでは、こんな話も少しできたらと思います。
ご興味ある方、ぜひご参加ください。
第八弾 京都場アート講座「女が男を描くということ〜男体盛りから仏画まで」
木村了子はなぜイケメンを日本画で描くのか?
5月5日19:00-20:30@京都場